「心中の賊 > 山中の賊」
2017年6月1日
■自己実現を阻むもの
『なれる最高の自分になること』、経営コンサルタント小宮さんによる自己実現の定義です。成功を夢見て起業する人もいれば、幸せに生きることを地道に目指している人もいます。しかし、実際には、なかなか思う通りには行かず、その実現は相当に難しいものです。いったい、何がこれを阻んでいるのでしょうか。中国明代の儒学者、王陽明は『山中の賊を破るは易く、心中の賊を破るは難し』という名言を残しました。実体のある山賊は目に見えるので退治しやすいけど、心の中にあるさまざまな矛盾や欲望、怒りや迷いなど、実体がないにもかかわらず、自分のしたいことを邪魔しているものこそが、心中の賊であり、最大の敵であり、自分の心そのものである言っているのです。
■「情けない自分」という現実
哲学者の岸見一郎さんは、「アドラー心理学が、生きづらさの責任を過去の経験や他者に求めることなく、勇気をもってこの人生を生き抜く決心をするきっかけになればいい」と著書の中で言われていますが、なかなか過去のことが忘れられないというのは誰にでもあることです。厳しいことや嫌味なことを他人に言われ、悔しい思いをしたことを、自分の意に反して、何度も思い出したり、さらに夜も眠れなくなるくらいぶり返したりします。また、将来のことを考えると不安に苛まれ、気になって気になって、今やるべきことに集中できなくなったりもします。このような状態にある自分は、最大の敵である心中の賊をなかなか退治できない「情けない自分」であり、この現実を直視できなければなりません。
■「先発ピッチャー」と「リリーフピッチャー」
心中の賊を退治するのは、一生をかけた大事業です。ちょっとやそっとでは、達成できません。仏教者の山下良道さんは、そもそも、これを退治するのは、もともとの自分である「先発ピッチャー」には無理なことで、交代した後の自分である「リリーフピッチャー」が、いつのまにかやっていることなのだと解かれました。つまり、肉体的な意味では自分は変わらないけど、精神的な意味での自分は生まれ変わった(というくらいの)別の自分にならなければ、「情けない自分」から脱却することはないということだと理解しました。「変われたらいいなぁ」というような軽い願望程度では、まずは変われないと言い切って良いでしょう。では昔の人々はこのテーマをどのように乗り超えてきたのでしょうか。
■命がけの成人式
心理学者の河合隼雄さんは、未開社会では、成人式という通過儀礼によって子どもは大人になった。これは「子ども」という自分を終え、「大人」として生まれ変わるということであり、全くの「別人」になることと考えられていたと言われています。これは、自立させるために、母親と子どもを引き離すことを、成人式という集団でやることにより厳粛な儀式になりました。武家でも、14歳頃に大人と同じ権利と義務が生じることを自覚させる「元服」という儀式がありました。元服を境に、服装や髪型、名前まで変えて自覚を促しました。内面を変えるために昔から人々は知恵を使ってきたことがよくわかります。それくらい自分を変えるのは難しいということでしょう。
■十字架と復活
成人式が命がけだというのは、子どもが個人として個性を備えた大人となろうとする限り、そこに何らかの「終焉」が必要となるからです。つまり、内面において、子どもの自分を終えることや自立するために母親への依存を絶つことができるかどうかですが、それは時に実際の惨事にまで至ることがある危険を孕んでいるからです。このように、終焉と誕生がほぼ同時になされることは、キリストの十字架と復活というお話とも共通する真理とも考えられます。キリストの復活は何を意味しているのか、信じるものは救われるということと、罪の赦しと永遠のいのちを授けられることと言われます。永遠のいのちを獲得できれば、未来への不安に苛まれる心中の賊を退治できるということなのでしょう。
■日に新たに
自己実現のためには、過去の自分から新たな自分に生まれ変わることが必要だとすると、それを信じられるかどうかが分水嶺になります。「日に新た」という言葉は、松下幸之助さんがよく使った言葉の一つですが、本質を見抜かれていたと思います。日に新たという心掛けを、本当に実践すれば、次々と自分が新しくなっていくというということ、つまり毎日生まれ変われるということです。これは、過去を引きずらず、未来を憂いず、今ここに集中する力を持てるということでもあります。心中の賊退治は、リセットする力、切り替える力を身につけ、集中力を生み出し、力強さを得て、「なれる最高の自分」に近づける筋道を自得することで、ようやく可能になるという相当に困難なもののようです。