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「給与DXのエムザス」 給与とシステム両方を本業に約20年

社長とれんど考察

「やるべきこと > やりたいこと」

2019年10月1日

■やりたいこと
多くの人たちは、自分のやりたいことをやるのは良いことだと言います。一方、やりたいことがないのは良くないことのように言われます。私たちもやりたいことを見つけるために生きているという側面もあるのではないかと思います。やりたいことを見つけて実現することを「自己実現」と言い、これを人生のゴールと位置づけている場合が多いと思いますが、立ち位置によっては最終目的にしてはいけないとも思います。五段階欲求説で有名なマズローは、晩年に六段階目を発表していたことが分かっていますが、今回は、自分のためにやりたいことを見つけて実現するという五段階目で止まっていてはいけない役割を持つ人もいることを考えてみたいと思います。

■五段階欲求説
「自己実現の欲求」とは、自分のやりたいことをやること、なりたい自分になること、なり得る最高の自分になることであり、自分らしく生きたい欲求のことでもあります。この五段階目に至るまでには、生理的欲求、安全の欲求、社会的欲求、承認の欲求がありますが、これら下位の欲求が満たされても、人は自分に適していることをしていない限り新しい不満が出て、自己実現を求めるようになります。マズローは、「人は、自分自身の本性に忠実でなければならない。このような欲求を、自己実現の欲求と呼ぶことができるであろう。」と言っています。しかし、一番問題なのは、自分がやりたいこと、なりたい自分の姿を作ることが意外にも難しいということかもしれません。

■自己実現者
マズローは欲求階層説を発表した後で、四段階目までを「欠乏動機」と五段階目を「成長動機」とする考え方を発表しています。ハーズバーグも二要因理論(動機付け要因・衛生要因)で同様なことを言っておられますが、欠乏動機(衛生要因)は、足りないと不満を感じるもので、満たされていないと不満になりますが、ある程度満たされると、人は飽きてしまってその欲求自体を忘れてしまい、成長動機へ向かいます。成長動機(動機付け要因)は、成長することそれ自体が目的になるもので、ある程度満たされても満足せず、どこまでも追い求めて飽くなき追求を続けて行きます。このことから成長動機で生きている自己実現者は自律的で独立的であることと相関するのだと感じます。

■六段階欲求説
自己実現すれば、それ以上の欠乏感も、欲求もなくなるはずなのに、とても努力と苦労をして自己実現できたとしても、虚しさや欠乏感がなくならずに苦しむ人が多いという現実があります。実はマズローは晩年に「超越的な自己実現の欲求」という六段階目を発見していました。超越的な自己実現の欲求とはフロー体験を求める欲求とも言われますが、文字通り自己を超えることから、自分のためや自分の家族や仲間のためだけに自分がやりたいことをやるのではなく、もっと多くの人たちのために自分がやるべきことをやるということではないかと解釈しました。このように考えると、歴史上でも現代でも世の中の著名なリーダーは超越的な自己実現者といえるのではないかと思います。

■政治家のやるべきこと
一方で、本来は超越的な自己実現者であるべき政治家にもかかわらず、せいぜい普通の自己実現に止まっている人が多いように感じます。政治家こそ、世の為、人の為に仕事すべきです。それは私たち大衆の平和と安全を確保し、生命と財産を守り、豊かな生活を実現することに他ならないと思います。そう考えると政治家の質は極めて重要です。我が国でも十年ほど前に実際にありましたし、今は近所の国でそうなっていますが、政治家のレベルが低いと国民が困ります。取り巻き以外の多くの人々は、政治家が個人的にやりたいことなどさほど興味はありません。古今東西、政治家が五段階目で止まっているようでは大衆が迷惑し、政治が失敗すると戦争につながっているのです。

■経営者のやるべきこと
国のトップである政治家がやるべきことよりやりたいことを優先すると国民に害が及ぶことは我が国でも近所の国でも明白ですが、会社のトップである経営者も会社の中での役割は政治家のそれと同じです。自分の欲望や名誉、意地や感情を優先してしまうと、一時的に自己実現したとしても、時間と共に衰退することは、最近のニュースを見ても分かります。マズローが示す五段階目から六段階目に昇ることは、経営者にとっても極めて重要な課題です。経営の失敗は倒産です。失敗すると多くの方々に迷惑がかかります。失敗の可能性がゼロの会社はありません。失敗しないように、自己革新(世阿弥的には自己更新)をやり続けられることが必要なのだと実感します。

■従心
とはいえ、自己実現することも、それを超越することも、そう簡単にはできません。二千五百年前に孔子先生が残しました。「私は15歳で学問に志した。30歳で自信がつき自立できるようになった。40歳で心に惑いがなくなった。50歳で天の使命を知り得るようになった。60歳では耳にどんな話が聞こえても動揺し腹が立つことはなった。70歳になると自分が行うすべての行動は道徳の規範から外れることはなくなった」と。自分の思うように言ったりやったりしても、人の道から外れないようになったのは、何と70歳になってのことでした。このような試験にも出ることのないテーマを習得することは容易でなく時間がかかることは、いつの時代も同じ永遠のテーマのようです。